2.アントロポゾフィー音楽療法士になるまで
私が初めてアントロポゾフィーと出会ったのは、東京三鷹市にある明星学園高校の11年生だった頃のことです。PTAの企画で、保護者のためのシュタイナー教育講習会があり、以前からシュタイナーの思想に興味があった私は、担任の先生に頼んで参加させてもらいました。そこで、「言霊」のお話を聞きました。「知的障害を持った若者たちに、とても難しい文学の講義をする先生がいる。講義の内容を理解しているとは思えないのに、生徒たちは皆、とても真剣に講義に耳を傾け、感動している。言葉には力が宿っている。」そんなお話だったと思います。他にもいろいろなお話を聞き、東京シュタイナーシューレから来て下さった方々にメルヘンクーゲル(手に持って振るとシャラシャラと美しい音がする鈴)を見せてもらって、帰って来たのを覚えています。
その日から、図書館でシュタイナーの著書や、アントロポゾフィーに関する本を借りては読むようになりました。特別大きな感動があった、というわけではありませんでしたが、私はそこに書かれていることを、とても自然だと感じました。そして、迷うことなく、将来シュタイナーの音楽療法を勉強したいと思いました。
その二年前の夏、15歳だった私は、関東のプロテスタント教会の中高生たちが毎年参加するキャンプに行きました。(私は幼稚園の頃から教会に通っていました。)そのキャンプは、アブラハムの人生がテーマで、とてもすばらしい4日間でした。「神さまに示された道を、少しの疑いもなく歩く。」彼が歩いた道を自分も歩きたい、私はそう思いました。そして、洗礼を受ける決意をし、その年のクリスマスに受洗をしました。当時の日記帳に、「神さま、どうか私に、音楽を通してあなたのお仕事をさせてください。」という祈りが書いてあります。
小さい頃からピアノを習っていましたが、私が音楽の本当の楽しさを知ったのは、中学高校と6年間在籍していたオーケストラクラブでのことでした。ここではクラリネットを、同じ頃、教会では礼拝の奏楽としてリコーダーを吹いていました。オーケストラの指揮者の先生はとても厳しい人でしたが、本物の音楽とはどういうものかを知っていて、それを、まだ10代の私たちに、惜しみなく伝えてくれました。「うたう」こと、表現すること、美しい音色をつくること、よく聴いて合わせること…プロの演奏家だけあって、要求も高かったけれど、私たちは皆、このクラブで音楽が大好きになりました。合奏することがとにかく楽しかった。そして、安い学生席の券を買っては、プロのオーケストラや室内楽のコンサートを聴きに行きました。
このオーケストラクラブで鍛えられたもう一つの技能は、楽譜の読み書きです。当時、学校にはB管という、ドレミと吹くとシbドレという音の出るクラリネットしかありませんでした。しかし、多くの交響曲はA管のクラリネット用に書かれています。その楽譜をB管で吹くために、私たちは、いったい何曲、交響曲のパート譜を一楽章から四楽章まで写譜したことでしょう。つまり、一音下げて、全部書き写すのです。中学高校時代、私は勉強していた記憶より、楽譜を写していた記憶の方が多いような気がします。(笑)卒業も近くなって、もう写譜をしなくても楽譜を読み替えて吹くことが出来るようになった頃に、A管のクラリネットを学校が買ってくれました。今はコンピュータもありますし、写譜の苦労は私たちの代で終わったようです。(笑)
音楽療法士になるための勉強ができる大学は、当時あまりありませんでした。そんな中で、東海大学教養学部の芸術学科音楽学課程では、音楽療法に関する科目がたくさん受講できることを知りました。医学部との連携もあり、音楽療法を学ぶには良い環境でした。
しかし、入学して、日本の一般的な音楽療法の勉強を進めてゆくうちに、私の心にはいくつもの疑問が生まれました。音楽とは、クラシック音楽や唱歌やJポップなど、私たちが普段耳にすることの多いものだけではないはずです。そういうものは音楽という大宇宙のほんの一部にすぎないのではないか… そもそも、曲を構成している音階、リズム、ハーモニー、演奏する楽器の種類など、多くのことが、聴く人にも、演奏する人にも、影響を与えているはずです。それに、音楽が作用するのは、私たちの情緒、心理、脳、それだけなのでしょうか。しかし、この疑問に答えるには、現代医学では説明しきれない、もっと違った、音楽や人間に対する捉え方が必要であることに気づきました。
その頃、父が重度の脳卒中で倒れ、数ヶ月後に意識は戻って来たものの、精神と身体に重い障害を負いました。いくつもの病院を転々とした末、倒れて8ヶ月目に亡くなりました。父の病と死を通して、人の身体だけを診る現代医学に、大きな疑問を感じました。ある日突然重度の障害を負うということは、患者にとって、人生最大の危機であるはずです。そのような患者の心理面にまったく目を向けず、身体管理と延命治療しか視野にない。それは、正直、私たち家族も同じでした。どうやって病や死に向き合ったらよいのか、解らなかったのです。そんな自分自身に、また、現代医学に、私は激しい怒りを感じていました。
そんな私に、アントロポゾフィーは道を開いてくれました。病は決して不運ではない。人が成長し、より強い力を得てゆくための試練である。そして、死は決してすべての終わりではない。肉体を脱いで、精神は生き続ける。そして、再び新しい肉体をまとって、生まれて来る。あるオイリュトミーの講座に参加した時、ドイツでオイリュトミー療法士として活躍されている講師の方が、ベルリンにアントロポゾフィー音楽療法を学ぶことができる学校があることを教えてくれました。
その学校に、何回手紙を書き、ファックスを送ったでしょうか。ようやく返事が来て、学校を見学することを許してもらいました。大学の交換留学制度を使って、初めて1ヵ月半ベルリンに滞在した時、私は学校を訪問し、校長であるペーター・ファウシュと出会ったのです。たどたどしいドイツ語で、「日本でアントロポゾフィー音楽療法を実践したい」と言ったら、彼は、「それなら、ここへ来て4年間勉強しなさい。」と答えました。まさか留学までは…と思っていた私の心が、この一瞬に決まりました。私はここでアントロポゾフィー音楽療法を勉強し、必ず日本に帰ってそれを実践する、と。
今思うと、ちょうど同じ頃、日本で長年シュタイナー音楽教育に携わって来た竹田喜代子氏をはじめとする芸術療法士、オイリュトミー療法士、アントロポゾフィー医学に関心を持った医師たちが集い、IPMTというアントロポゾフィー医学の医師を養成するコースが立ち上がろうとしていたのです。
父を亡くした私たち家族には、お金がありませんでした。留学資金を得るために、私はダスキン障害者リーダー育成海外派遣制度(愛の輪基金)に応募しました。ちなみに私は先天性弱視で、障害者手帳2級、視力は強制不可能で左目が0.05、右目は見えません。倍率が高い奨学金だったので、あまり期待はしていなかったのですが、有難いことに選出して頂き、1年間月15万円以上の生活費と旅費が給付されました。これは、ベルリンで生活の基盤を築くのに充分な金額でした。同じように、留学の最後の2年間、私を経済的に支えてくれた会社がありました。父の友人の取引先であるイカリ消毒社の環境文化創造研究所が、帰国時の講演や会報への執筆を条件に、毎月生活費の仕送りをしてくださいました。この二つの会社からの経済的サポートがなかったら、私はベルリンの学校を卒業して帰国することは出来なかったでしょう。
東海大学を卒業後、私は渡独し、音楽療法の学校と同じ敷地内にあるハーフェルヒューエ共同体病院というアントロポゾフィー医学を実践する病院で介護実習をし、隣街のポツダム大学で、外国人のためのドイツ語クラスに入り、旧東ドイツ仕込みの先生たちから、非常に厳しく、そして素晴らしく実用的な語学の授業を受け、DSHという、留学生が大学に入学するために必要な語学力テストに受かり、正式にポツダム大学に入学し、学生ビザを取り、音楽療法のクラスが始まるのを待っていました。音楽療法の学校は月に一週間しか授業がなく、正式な学校として認められていないので、どこかの大学に在籍して学生ビザを取るしかなかったのです。
音楽療法の学校で学んだ4年半は、私にとって一生の宝ものです。大変なこともありました。最初の頃は言葉もよく解らず、授業についてゆけないこともありました。それでも同級生5人の小さなグループですから、常に意見を求められます。遠慮すること、黙っていること、隠れること、ごまかすことは一切許されませんでした。たくさんの壁を乗り越えなくてはなりませんでした。同級生たちは一番年下で、外国人で、弱視の障害を持った私に、あたたかく近づいて来て、心を開き、支え、励まし、だんだん私の本性が現れて、図々しくなってくると、からかい、笑いの種にし、そして心から敬意と愛情を示してくれるようになりました。彼女たちは、ずっと私の大切な友達です。
この学校で学んだことは、音や、楽器や、人間と向き合う姿勢でした。ひとりひとりの人間に個性があるように、楽器や音にも個性があります。例えばライアーとクロッタ(チェロに似た療法楽器)では、音も形も弾き方も、響きの作用もまったく違いますし、同じ楽器で演奏しても、例えばドの音とレの音は、違った色あいを帯びています。自然の素材もしばしば音楽療法に採り入れられます。石が堅く透明感のある音を出すのに対して、木はあたたかく軽やかな音を出します。このように、私たちは耳と目と心を開いて、対象を見つめ、全身全霊で感じ、深く理解することを学びます。この深い眼差しは、患者さんに向けられる眼差しでもあります。そして、私たち療法士自身にも。
「この人は何を必要としているだろうか、どんな楽器や素材や音楽が、この人を助けられるだろうか」 患者さんを前にした時、私たちはそう考えます。いくつかの楽器を一緒に演奏してみたり、声を使ったワークをしてみることもあります。患者さんの楽器との接し方、弾き方、奏でる響き、声、そういうひとつひとつのことに耳を傾け、観察し、その患者さんの肉体、エーテル体(東洋医学の気に近いもの)、アストラル体(感情の動き)、自我(その人の本質、その人らしさ)がどんな状態にあるか、見極めてゆきます。こうして、その患者さんのための療法が編み出されてゆきます。人は、全身全霊で音楽を聴いているのです。そして、音楽は、人の全身全霊にはたらきかけるのです。
学校の最後の一年は、実際に病院で音楽療法士として働く年です。私はフライブルクの郊外にあるフリードリヒ・フーゼマンクリニックという精神病院で3ヶ月、ベルリンのハーフェルヒューエ共同体病院で9ヵ月働きました。ハーフェルヒューエ病院では、主に緩和ケア病棟で、末期がんの患者さんたちのベットサイドでライアーを弾いていました。自分専用の音楽療法室も与えてもらい、心療内科の患者さんたちは、私の部屋に来て、クロッタを弾いたり、ジャンベ(アフリカの太鼓)を叩いたり、能動的療法を受けました。目標実習時間数は1200時間。同級生の誰も達成できませんでした。(笑)毎日病院で10人以上の患者さんを診ても、私はやっと920時間でした。実習をしながら卒論を書いて、症例報告書を書いて、2008年6月私たちは試験を受け、卒業しました。
私が学校に在籍していた頃、竹田喜代子氏がベルリンの学校を訪ねて来てくれました。その時、ペーター・ファウシュ氏と3人で、日本でアントロポゾフィー音楽療法士を養成するコースを立ち上げる話をしました。日本のアントロポゾフィー医療を実践する医師たちの応援を支えに、2011年、横浜のアウディオペーデ研修センターにて、音楽療法士養成コース(パイオニアクラス)がスタートし、2013年夏、受講生たちが初めて、ベルリンの学校で一週間の研修を受けました。開講前の準備の段階から、私は竹田氏をはじめ、他の講師、医師たちとともに、このクラスを担っています。
奨学金のこともそうですが、私は本当にたくさんの人たちの力によって、ここまで来ることができました。ドイツで勉強して帰国した最初のアントロポゾフィー音楽療法士という役目に、私はみんなから選んでもらったのだと思っています。ですから、私はこれからも、私にできる精いっぱいのことをしてゆきたいと思います。
父は56歳で逝きました。でも、彼は大きな使命を私に残し、今も一緒にはたらいてくれていることを感じます。これからも一歩一歩を大切に、歩いてゆきたいと思います。
2014年 横浜にて
0コメント